昭和54年12月21日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生れてきたのではない。みな、皇上のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。

 やはり心がけが信心させて頂く者には大切ですけれども。心に掛けておっても、やはり心というものはどうにも出来ない。大事にせねばならないと思うておっても、心掛けておっても大事に出来ない、どころか粗末にすると言った様な事がございます。信心させて頂いておってこんな事を思うたり、こんな事を言うたりしておるが。本当相済まん事であると思いながらなかなか出けません。
 そこで結局、日頃の信心の稽古をさせて頂いて、有り難い事が思え、有り難い事が行なえるような心の状態を、いよいよ作っとかなければいけないという事になるわけです。心掛けとしては、それは心懸けでおるけれども、なかなかそれが出来ない。昨日のミニ御理解の中にも、例えば人の悪口を言うてはならんと、まぁ心掛けておりましても、最後にありますように、影で人を助けてやれと一体になってますよね。
 昨日の人の悪口を言わんだけではなくて、影で人を助けてやれとおっしゃる。悪口を言うという事だけなら、またそこにたえればね、言わんで済む事も出けるけれども、かげで人を助けてやるという事は、心の状態が、いよいよこちら自体の信心を進んでおらなければならない。心もそういう人を祈ると言った様な心が、ね、なからなければ出来る事じゃないですね。
 昨日のお話の中にも、私のあの従兄の事をお話しましたように。忙しいもんだから忙しいではいかんから、具合が悪いち言うけしとるようにお傍で、明くる日がまぁ言うならばばらた訳ですが、そん時に私がどうしてじゃかのあの人ばっかりはと。こう言うな思うたりしたら、もう言うたも同じ事ですよね。けれどもあの人はなかなか言うなら目先の事だけしか言わん人じゃ。もう若い時からそうじゃった。だから仕事が忙しいのだから。やっぱ目先の事を思うたら。
 甥の霊祭以外にはもう嘘を言うてからでも行かん方が便利が良いという事になる。ならその人になって見ればそうなんだから,そうであろうとこう。どうした奴じゃろうかと思うていない事です。そしてそれではその人が本当の助かりにはならんから、少しは信心心がこう進んで行くように。こう祈ってやる。それがまぁ影で人を助けるというのは、そういう事ではなかろうかというような話でしたよね。
 昨日だから言わんだけではない。それを祈るというところまで行かないと、そういうこちらの心が育っておかなければならんのです。人の悪い事を悪う言うてはならんと、心にかけておっても。言いやせんでも心に思うならもう言うたも、いわば同じような事である。そん時にすぐはぁあの人にとってはそうかも知れん。そうであろうともう責める心悪口を言うたりする心ではない。
 それがあの心の中にたくましく出ける。しかもその後にはそれでは本当の助かりにならんから、もう少しは心が向上するように、心が有り難い方に育つようにという祈りを持つ。影で人を助けるとは、そういう事だという風に申しますなら、今日の場合でもそうです。年よりを大切にせんならんと思う。そういう風に心がけておるけれども。年よりを見よるともう家の年寄りばっかり良うしようと思うても、良うはされんと言った様な年よりもやはりある訳である。
 だからそういう年寄りでも、やはり教祖様は、年よりは、出きるだけ世の人のためにも、世のためにもなって来ておるようなもんだから、まぁ年よりを敬うんだぞと、大切にするのぞとこう、言うておられる。それを守るという事がです、守れる心を常日頃に作っておかなければならんという事。昨日は鞍手の柴田さんから電話が掛かってきた。昨日はあちらの共励会でもございました訳ですけど、なかなかその竹で割ったようなお方ですから。何と言うですかね。
 もう自分の思うた事はポンポンこう、誰にでも言われるような所がある。先実意今日は私は、お得意回りをさせてもらいよったら、こういう事に出会ったんですが、これでよかったんでしょうかと言うて電話が掛かって来とった。子供さんが出来られたけれども、それを降ろされた。もう簡単にまぁ出けたけれどもその後が悪い。もう十日も頭が上がらんでおられるという話を聞かれて、その人は大変怒っておられるです。
 神様から頂いたものを無断でそういうような事をするから、アンタがまあ言うなら罰かぶっとるたいち。御初穂ば包まんのち、私がちゃんと金光様にお願いばしてやるけんで、そこんところはアンタも祈らんけん、しっかり大祓いせんのち、まっ言うたとこう言うのです。だからもう一つはもう一件に参りましたら、もう八十いくつになるお婆さんが、脳軟化症で休んでおられる。病院に行ったけれども、まぁ大変お金がかかるので、家に連れて帰って来て。そしてまぁ付き添いか看護婦かを一人つけておる。
 ところが日に6500円もその払わんならん。もう本当いっちょ早う死んでもらわにゃ出けんち、その息子か嫁さんかが言うたち。はぁもう私は頭にカツッと来たから、もう言いましたち。アンタその親のおかげで今日があるのに。早う死んだらよかてん何てんそげな心掛けで、見よってんの90まっでん95まっでん生きてばのち言うちから、私は言いましたち言って。
 でそげなこつ言いよったらね、かえって長生きさっしゃるち。だから本当にあのおばあさんが楽になられるなら楽になられる為にです、親に孝行しなきゃ出けんよと。大切に出来にゃでけん。と言うてまぁ申しましたが。電話があったんですけども。本当に竹で割ったようなお話なんです。けどもまったく日頃その言われるとおりなんですよね。なら今日の御理解なんか年よりを大切にせよというのに、早う死んでもらわにゃ困るてん何てんち言いよるような考え方。
 けれどもこれは本当に竹で割ったような、もう赤裸々なお話じゃからけれども、お互いの心の中にもね、そげん口には言うたり思うたりはせんにしても、よく厳密に言うたらね、やはり年よりを大切にするのではなくて、反対な事が内容にあるような事はないだろうかという事です。それこそ自分の心を一遍それこそ割って見て、つぶさに検討してみて。ね。結局有り難い心、言うなら心掛けとしては心掛けておっても、やはり心の内容には、神様の気感に叶わないような事がある。
 心掛けだけでは出来ん。やはりいよいよ信心とは本心の玉を磨くものであり、日々の改まりが第一だというところに、焦点を置かせてもらい。それも合楽理念に基づいての、そういう精進をさせて頂いておるところに、いつの間にか心が清められておる、いつの間にか育っておる。心掛けとしないてもそれがちゃんと、もう心に止まっておる。どうしたヤツだろうかとこう例えば思うような心がなくて、あぁその人にとっては、それがまぁ本当かも知れないけれども。ね。
 それではその人の本当の助かりはないから。こちら祈りを送ってあげるくらいな心持をいつも作る精進をしておきませんと。つい私どもの心の中に、それこそ頑固な年寄りもおりゃ、それこそコンニャク婆のような灰汁で固めたような、年寄りもやっぱおる訳です。ですからこの年よりは大事に出けるけれども、この年寄りは大事に出けないというのでは、やっぱ今日御教えにもとるのですから。なべての年寄りにです心を使うてやれれる思うてやれれる。
 人が助かる事の言うなら、影で人を助けてやると言った様な心の状態が、育っておかなければならない。その事を私は心掛けておらなければいけないと思うんです。はぁ可愛そうだなあと思うと、なら可愛い神心が動きますけれども。そういう心が例えばある場合には起こらない。それではやはり信心にはなりません。てっぺいいわば信心は徹する事。年寄りを大切にする、年寄りを大事にしなければならんとという事がです。
 それこそ皆んなの年寄りを大切にさせてもらえれる言うならば心。年寄りを敬うという心。例えばどうであっても普通から言うたら、大事にせにゃんと思うけれども、この人ばかりは大事にはされんと言った様な年寄りでも、大事にする事が信心なんだと。そこが信心のある者とない者の違いである、という事を私は思います。厳密に自由というものを、本気で調べてみる必要があるように思います。
 それが信心なんですから。年寄りを大事にする。けれどもしようと思うけれども、出来ない年寄りがある。それでは信心のある者もない者も同じこと。年寄り大事に出けないような年寄りでも、もう本当早う死んでもろうたがええと、何てんと言った様な思い方のない。言うならば祈ってやる、祈って大事にされれる心掛けを、まずは私どもが作らなければいけないという事ですよね。
   どうぞ。